「沈黙シリーズ」にみるジンケン
大学生のときの一般教養の授業で(大学1年生と2年生がとる授業ですね)、 「市民と法」というのがあった。
この授業のコンセプトは、 普通に生活する人々が、その生活の中で、どのように「人権」というものを考えていくか、 というものだったと記憶している。
(当時の先生、名前も忘れちゃいましたけど、間違えてたらごめんなさい。)
例えば、医療なんかの切り口でもって、人権を考えてみる、とかですね。
インフォームドコンセントなんて言葉は、この授業でおぼえました。 この授業をきいたのは、19歳のときだから、もう16年も前の話ですね。 いい授業でした。
「普通に生活する市民が、生活の中で、どのように「人権」というものを考えていくか」、
という感覚は、非常に大事なんじゃないかと思う。
もっと言えば、人権というものは、難しい判例とか書籍なんかを読み解いて、理屈で語るものではないはずだし、 法曹界や研究者などから「与えられる」ものではないはずだ。
※もちろん、専門に研究することが無意味だと言っているわけではありません。 それはそれで、非常に重要な意味を持っていますから。 僕が言いたいのは、普通の生活の中で、人権感覚というものが、 どのように染み渡っていくのか…。それも大事なんじゃないかということです。
さて、業界的な影響だと思いますが、僕らの業界は「人権」っていうワードを結構な頻度で聞きます。 こんなに「人権」ってワードが飛び交っている業界も珍しいんじゃないかと思う。
しかし、そうであるかと思えば、その一方で「組織のためなら、人ひとりくらいは、踏んづけてもいいだろう」 なんてことが、わりと平然と行われたりもする(こともある。)
小さな組織でさえそうなのだ。 もっと大きな組織(「国家」など)となれば、それは、どうなるんだろう? 大きな組織では、いろんなものが曖昧になって、実感が得られにくくなる。 そんなとき、果たして、「個人として尊重する」なんてことができるのだろうか?
最後の砦になるのは、 僕も含めて普通に生活する人々のなかに、 人権感覚というものが、 しっかりと染み渡っているかどうか、 ということかもしれないな、とよく考えます。
いつだったか、 スティーブンセガールの沈黙シリーズ(どれだったかは忘れた)をみていたときのことですが、 その主人公のセリフのなかで、 「悪人に人権なんてねーんだよっ!」というのがあった。
そして、悪役の人が、バババッと殺されちゃう。
このセリフを聞いた時に、「すんごいこと言うな」と思ったんですが…。
強いものが信じる正義の前には、悪人とされたものは、ときに命さえ奪われても文句は言えないのだ。
こんなことは、実は、僕らの身の回りにだって、案外と起こっているかもしれません。
形を変えて、力と共に、そして無関心を装って。