映画をみる ドッグヴィル
友人(と言ったら失礼になるかもしれない、人生の先輩ですね)からだいぶ前に勧めてもらっていた映画でやっと観ました。
アメリカの田舎にある村ドッグヴィル。
その村に住んでいるトム(ポール・ベタニー)は物書きをしている。
自分の考える道徳を実践するために村人を集めて集会を開き、自らの考える道徳を説いたりしているんだけど、
村人の方はあまりピンと来ていなくて真剣に取り合ってくれない。
そんなときにギャングに追われ村に逃げ込んでくる女性グレース(ニコールキッドマン)が現れる。
トムは自らの信じる道徳を実践しようと考え、グレースを利用しようとするんですね。
トムは村人にある提案とする。
ギャングに追われ困っているグレースを助けるために村でかくまってはどうか、
その代わりにグレースには村人のために雑用をしてもらう、と。
村人は、最初はトムの提案に懐疑的だったんですが、雑用を一生懸命にこなすグレースを次第に受け入れていく。
最初のうちはグレースを受け入れ良好な関係を築く村人たちですが、
村人からの要求は次第にエスカレートして、グレースを支配するようになっていく…。
というストーリーです。
ドッグヴィルの町ですが、
セットは体育館の床のような広いスタジオにチョークで線を書き込んだだけという、
まるで舞台を観ているかのようなもので、
この映画の象徴性を表しているかのような不思議なものだ。
(役者たちはそのうえで、パントマイムのように演技をしている。)
トムは自らの信じる道徳を実践するという目標を掲げ、グレースを利用してある意味で村人をコントロールしようとしてしていく(ように僕には見える)。
人が人をコントロールするなんていうことはホントはできないですよね。
それぞれ違う人間なんですからね、当たり前と言えば当たり前なんですが…。
でも、人をコントロールしようとするなんていうことは、
意外に身近なところにあるんじゃないかな…と思いませんか。
グレースは村人から支配され最後は首輪をつけられたりするんだけど、
村人をかわいそうな人々として見ていて、「許してやらなければならない」などと考えている。
グレースはグレースで、これは裏を返せば村人を「人」として見ていないんですね。
もうまるで「神」にでもなったかのようで、「自分」というものがどこかに行ってしまっている。
ラストのシーンでグレースを追っていたギャングが再び現れる。
実はギャングのボスはグレースの父親だったのだ。
ボスはグレースを諭す。
諭されたグレースは最後の最後に全村人を虐殺し村に火を放つ。
「少しでも世の中をよくしなければならない。この村は存在していはならない」と。
この映画では、最後にまるで神のように全てを握っているギャングがケリをつけてくれるんですが、
実際の世の中では、神がケリをつけてくれるということはありませんよね。
人と人が付き合っていくというのは、もうちょっと複雑なのだ。